映画「三谷幸喜 大空港2013」

 「アナと雪の女王」を見るか「クレヨンしんちゃん」を見るかで迷った結果の三谷幸喜。もともとwowowでやってたドラマを特別劇場放送、ということで連休初日に有楽町へ。

 三谷幸喜の映像作品はだいたいいつも見てます。なんか面白いので。あのチープというか、お芝居ってことを観客に示しながらすすめる演出が本当に好きです。この作品でいうと、ワンカメラ、ワンショットという一切のカットが入らずに映像が進んでいくという手法。舞台上のお芝居であるということが日常風景のなかで強調されているんですよね。だから言ってる台詞になんの説得力もなく、リアリティなんかも関係なくて、名俳優たちの力いっぱいの演技がどこか笑えてしまうんですよね。「真剣にふざけてる」感じがすごい伝わります。

 それから、ほんとくだらない、ストーリー上無くても全く問題もない台詞を空気読まずに、放り込んでくる感じ。この沸き起こる不快感と微笑が三谷ワールドですね。ウザイキャラをきっちり役割として作っているところも見所やったな。梶原善とか青木さやかがちゃんと「ウザイ」笑。劇場全体に漂うあーはやく次のシーンへ移ってくれ、という一体感が心底見にきてよかったと思わせてくれます。ただ戸田恵梨香は愛されキャラとして出されていたのではないかと思うんですが、石橋杏奈とかいうチョイ役に完全に食われてます。調べてみると「マイ・バック・ページ」で赤邦軍にいた女性を演じてた人か。

 小さい空港を舞台にしたドタバタ劇で、ちょー狭い人物相関図のなかでの話だから、キャラへの感情移入もスムーズでして見終わったあとにとてもすっきりとした気分で帰ることができました。客席はガラガラでしたけど。

 

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「中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義」  中島岳志

政治史にまったく関心をもてないボクにはこの面白さはキャッチできなかった。こういう作品を心の底から楽しめない自分はなんか不幸な星の下に生まれてきたように感じる。主人公のラース・ビハーリ・ボースはインド独立運動を指揮する革命家。チャンドラ・ボースではない。祖国での武装蜂起をきっかけに、日本に亡命する。そしてそれからおよそ30年間の亡命生活の末、インド独立を見ること無くこの世を去る。

彼を中心に、孫文頭山満、そして犬養毅など戦時中のビックネームをちらほら出てきてそのたびに心躍るが、そういった歴史ファンでもないボクとしては、「新宿中村屋」の「インドカリー」の由来となったボースに一番関心が及ぶ。そもそも「新宿中村屋」って和菓子会社やと思ってた・・・・著者みたいにこの老舗の定番メニューから近代日本の世界に話をもっていく力量はほんとすごいっすなと思います。

背景とか全然知らんなくても難なく読み進めることができるけれど、全く知らないと「まったく知らんおっさんの一生」を読むだけになってしまうので要注意。

 中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

 

 

「虐殺器官」  伊藤計劃

著者は最近亡くなったそうです。つまりもう新作が読めないってことですね。こんな悲しいことはないですよ。そう思います。

911後の近未来、世界各国では紛争が多発するようになったが、どうもその裏には一人の男が暗躍しているとの情報が入る。主人公はテロリストを極秘裏に処理する、アメリカ軍の一部隊に所属する暗殺家である。

SFに馴染みのないボクでも作中で語られる「虐殺の文法」という設定にとくに違和感を感じなかったのは、どこかで聞いたか見たことがあったのだろうか。シンプルに言えば、それまで武器を手に取ることすらしなかった市民同士が虐殺を行うようになるのには、意図的に設置された「引き金」が存在し、それにはある男が絡んでいるというストーリーである。

 予備校の講師が、批評の最先端は「書かれていないことを思案する」という話だったけれど、SF小説ではそういった視点で見てみることが適しているように思う。近未来の世界観やテクノロジー、事件の背景や概要、人物の価値観などを詳細に描写しなければならないけれど、多くはそういった部分が少なく、SF小説に漂う無機質な雰囲気はそういったものが要因ではないかと思っている。

しかし本作では、「虐殺」の詳細を明らかにしない点や、人物同士の関係性を表すエピソードを入れない点、世界観をテクノロジーの視点のみから描くなど、多くの曖昧な部分を残すことでその不安定な社会の様子を浮かび上がらせるように感じた。

どういった終焉をイメージして読み進めるかは、この虐殺の要因を止めることであるかもしれないが、あまりにも人間性を排した場面ばかりで不安を煽る。そして、残念ながらかなり悲劇的なラストとなっている。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

「ゴールデンスランバー」  伊坂幸太郎

流行りものは流行ってるときに読まないと意味ないのではないか、とは思いつつも読んでみた。ちなみに「オーデュボンの祈り」と「死神の精度」はいまだ積ん読中。

巨悪と一人孤独に闘う一般市民。この設定だけで燃えるけれど、それよりも自陣があまりに貧弱すぎてとにかく逃げることに徹する、いかに上手く逃げ切るかに知恵を絞る、という展開もなぜか燃える。なぜ燃えるか。いかにも強大な敵を前に自分の工夫ひとつで対等に立ち向かえるといういわゆる「ジャイアントキリング」的な展開だろうか、あるいは逆境の中でもあきらめない主人公の勇敢さだろうか。

本作だと首相暗殺の容疑がかけられた中での逃走劇となっているので、「お上」の理不尽さ、マスコミの無責任さ、一般大衆の残酷さがまずストーリーに一味加える要素となっている。けれど、主人公サイドを追い込む要素は、こういったストーリーだとちょっとした味付けに留めておく方が、主人公と協力者との瀬戸際での関係性が目立ってくれていいようである。つまり知恵や機転以外にも仲間との結束をもって悪と対峙するという構図が、である。

昨今のエンタメ小説は主人公を再起不能間近まで追い込んでからの、逆転勝利に重きを置き過ぎていたのかもしれない。正義は必ず勝つ、という前提が無意識的に頭にこびりついてしまって、エンディングで打ちのめされる敵サイドに同情してしまうという展開も多いのだ。

主人公は常に窮地に立っているけれど、その場その場で旧友たちとの回想が入り、これからの展開にわずかながらの希望が消えない進行となっている点が、大きく違っているように感じた。

そして彼らはいかに逆境から這い上がっていくのか。いやそもそも主人公は逆境にいながらも、周囲にはみえない味方が大勢いてくれている様子が読者には知られている。だから一発逆転のシナリオ展開を想像するのではなく、終始前へ前へと戦い続ける主人公サイドに共感しつつエールを送る読み方ができたのではないだろうか。

ゴールデンスランバー (新潮文庫)

映画「スラムドックミリオネア」 ダニー・ボイル

これまで観てきた映画に関わらず、フィクション体験の全てを肯定する映画。

公開された時からかなり評判のいい映画であったけれど、楽しみに今まで取っておいた笑 とにかく評判通りの名作でした。

ラストのシーンにボクは大いに感動した。それはひとりの不遇な少年が人生を逆転させ幸せを掴むという、超古典的なラストシーンである。映画史上最高のご都合主義での一発逆転は、予想を上回るというよりまさに期待通りの展開となっている。つまり目の前の映像は全くリアリティの無い、夢・空想のどんでん返しなのである。けれどそこにこそ大きな感動があるというのは、どういうことだろうか。

冒頭シーンで主人公はクイズ・ミリオネアでの快進撃を理由に逮捕される(この時点でラスト1問残し)。そして自分の生い立ちを振り返っていく。すでに起きた連続正解は、視聴者にとっても予定調和であり、驚く場面ではない。しかし、ここでの伏線があってラストシーンへの期待はすでに高まっていく。つまりハッピーエンドへの期待である。

映画に限らず、小説などであってもこじ付けのオチは非常に多いけど、それは感動させるための演出として納得させられる。「うまく感動出来た!」といった心地いいがやや後ろめたい心地よさである。本作でボクは、ハッピーエンドを求めそれにつながるあらゆる演出を許し、期待通りのラストシーンに舌鼓を打つ。

主人公とヒロインの幸せを心から望む準備をもって映像に臨むことのできるストーリーは、これまでのフィクション体験で得たご都合主義的ハッピーエンドすらも肯定できるもののようである。ボクはこの映画に感動していいのだ。

 あと、エンディングのダンスシーンは超あげあげ。

スラムドッグ$ミリオネア