映画「マイ・バック・ページ」

映画「マイ・バック・ページ」鑑賞

2011年。山下敦弘監督、妻夫木聡松山ケンイチ

原作は朝霞自衛官殺害事件を題材とした、川本三郎のノンフィクション小説。元・朝日新聞記者の川本が、新左翼の活動家の学生に共鳴していく過程で、殺人事件にまで発展する実際の事件がもとになっている。妻夫木が演じる沢田は東都ジャーナルの記者として、松山ケンイチ扮する活動家・梅山と接触する。不確かな話を聞かされながらも徐々にシンパシーが芽生え、武器奪取のため自衛隊基地の襲撃を計画する梅山に独占取材を頼む。

梅山はとことん欺瞞に満ちた愚かな人物として描かれている。大衆を先導することはおろかメンバー内からも批判が飛ぶほどで、彼に特別なカリスマ性があったようには解釈されていない。しかし、松山ケンイチの風格やその巧みな弁舌が彼に特別な空気感を与えている。ただ、観客の目線として梅山に引き込まれていく沢田に共感することはできない。梅山の人間的な幼稚さが丁寧に描かれることで、沢田の愚かな功名心もさらに目立ったものになっているからだ。

記者も学生も何も目指してはいないし、革命への熱意を強くもっていた青年というようには描かれていない。何かを成し遂げようともがく若者像はボクには感じられなかった。それは全共闘時代に生まれてもいない山下監督以上にボク自身がこの時代に対して冷めている、というか無関心だからかもしれない。自衛官が理不尽に殺害された場面はたしかに丁寧に描写され、主人公らの行動を客観的に見ているようだった。けれどそれは歴史的事件としてはややインパクトに欠け、教訓として語るにはドラマが足りないように感じてしまった。

人一人が殺されてしまった。この事実をどのように扱うかはこの作品の大きなテーマのひとつだ。時代性を希薄にし、また梅山の人物像を細かく描写することで、実際の殺人事件であるという問題は繊細に扱っている。ただ社会的な影響であるとか、倫理的な問題にはほとんど踏み込んでいない。ただ二人にとってそれは大きな失敗だったというニュアンスはしっかり伝わってくる。そのさじ加減は絶妙で、大きな喪失感を味わえるようになっている。

現代に通じる若者論はここには存在しないのではないか。沢田はただ功名心から無能をさらしてしまっただけだし、梅山はそもそも目立ちたかっただけの屑である。二人の主人公は全力であったようにすら感じられない。過去の歴史的事件の清算という意味合いも大きいが、どこにも身の置き場が無い不安定な人物を描くことで、その結末の事件の意味合いが引き立っているようだった。

史実としてそれは大きな事件だった。けれど主人公らにとっては、それまでの熱狂を冷めさせるただの痛い失敗だったのである。それまでの自分をようやく客観視するきっかけになっているのがわかる。そのため徹底的に周辺の情報を排除して沢田の心理的な変化を重点的に映している。

ラストシーンで沢田はかつて記者時代に身分を偽って知り合った下町暮らしのタモツと再会する。「ジャーナリストにはなれたか?」と聞かれ、「いや、なれなかった」と沢田は答える。つつましくも幸せな生活を送るタモツを見て、スクープを追い求め市民を省みなかった自分に激しく後悔し慟哭する。妻夫木サイコーだよ。なんて俺はアホだったんだ、という自分の過去を直視する瞬間を切り取ったシーンだけは多くの観客に響く部分ではないだろうか。

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